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この一枚2018年 セブ篇 その(9) 或る日の夕飯の中味

 世界には満足に食べられない人が何億人もいるのが現実で、このフィリピンでもアセアン域内で経済成長率は高いものの、飢えている人が何百万人もある。

【たまには良いが続けていると身体に良くない外食】

 しかも、1
日でも飢えを感じたことのあるかどうかの調査では20
%以上の高率を示し、人口1億人を軽く超えるこの国では2000万人に該当するから驚かされる。そういう貧しさが残るフィリピンだが、外食産業は盛んでそれを利用する人もかなり多い。

 このように飢えている人々は世界にはまだ多いのに、一方ではアメリカのように食べ過ぎが主原因の太り過ぎが半数を超えるというからこれにも驚かされる。半分は肥満とのアメリカだが、小生の眼にはアメリカ人はほとんどが肥満ではないかと思える。

 アメリカに限らず白人種はその体格の大きさからかなり肥満が多く、この肥満の源は溯れば現在も飢餓の多い国を植民地にして略奪した国であることを考えると、数百年越しの問題で、簡単に解決できるものでもない。

 先ほどの飢えている人々に連帯するような高尚な気持ちは全くないが、食べ放題が売り物の店などには今は行く気もないし、老齢の人がモリモリ食べている姿など『そんなに食べてどうする』と何となく浅ましく見えたりする。

 もっともこれは小生自身が年を取った証拠で、年々小食になり、ご飯など1日1杯程度しか食さない。ならば副菜が豊富なのかというと、こちらも1菜か2菜程度で量も少なく、しかも肉系はほとんど食さない。

 といって薬や健康食品と称する多くのインチキ商品とは縁はないし、不健康な状態でもなく、禅僧が昔から一汁一菜の生活でも長命を保てているから、少なくても飽食は良くないようになる。

 さて、写真はとあるフード・コートで食べた或る日の夕食で、この日は買い物ついでに立ち寄った。フード・コートというのは、トレイ入りのおかずを店先に並べたり、ファースト・フードメニューを扱う小店がズラッと並んだ簡易なレストラン街で、これがフィリピンにはショッピング・モールを中心に多い。

 この日頼んだのは左下が『烏賊のアドボ』、その右は海藻の『ラト』、右端は『カンコン炒め』、それに魚のスープにご飯で、この他に写真を撮った後に少々物足りないと『魚のキニラウ』と『コロッケ』を追加した。その合計が日本円で600円ほどになり、日本的感覚では安いがフィリピン人の1日の収入に近いといえばかなり高額。

 どの皿も伝統的なフィリピン料理で、『アドボ』というのは暑いフィリピンで日持ちを良くするため、醤油似の調味料と酢で煮込んだもので、この皿は烏賊だが肉などのアドボもある。レストラン風に恰好を付ければ『小烏賊の墨煮』となるか。

 

 『ラト』というのは正式名は良く分からないが、フィリピンでは昔から普通に食べられている海藻で、今は養殖が盛んでこの海藻から抽出されたのが『カラギーナン』で、アイスクリームなどの乳製品、シャンプーや練り歯磨きのなどの添加剤として広く使われている。

 養殖と書いたがフィリピンでの生産は全世界の生産量の80%を超し、離島の浅い海で養殖している姿を良く見かけるし、大きな加工工場もセブにはあり、これといった産業のない地域では現金収入の一つになっている。

 

 『カンコン』は『空芯菜』と呼ばれているもので、フィリピンでは見慣れた野菜の一つで、これもアドボにして食べるが、カンコンの生える場所は汚水溜まりが多く食べるには注意を要するという人もいる。

 

 追加の『魚のキニラウ』は、フィリピン風の魚の酢締めで、小魚の身に刻んだショウガやトマト、赤玉ねぎを混ぜ、酢はココナツ・ジュースから作った天然物で、同じくココナツ・ミルクを混ぜて作る。

 鮮度の保持から生ものに注意のフィリピンでも、割合安心して食べられる料理で魚好きな人間には嬉しい一品。このキニラウというのは魚だけではなく、肉やアンパラヤ(苦瓜)など野菜系もあって、フィリピンの酢サラダ料理といって良いだろう。

 『コロッケ』はこのフード・コートに出店している新しい店で、珍しいなと思って注文したが、出来合いでなく注文を受けてから揚げているから珍しいが、これはほとんど客の姿がなかったためではないか。

 

 小さく丸められたコロッケが7、8個、その上に日本的なソースがかけられていて味は悪くないが、コロッケそのものの味よりソースの味で食べさせる一品で、こういうのはフィリピンで売れるかなという感じはあったし、実際客の立ち寄る様子はなく、心配なほど。

 

 さて、こういった伝統的なフィリピン料理の欠点は、ともかく塩味が強すぎて健康に良くない。この塩味の強さは少ないおかずでご飯を大量に食べる食習慣があるためで、そういった食習慣からフィリピンの平均寿命はかなり短い。

 

 これは日本が、かつて沢庵など塩辛いおかずでご飯を大量に食べていた時代と同じで、こういう食習慣は改善して欲しいものである。

 



 

author:cebushima, category:この一枚 2018 セブ篇, 18:40
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プーケット・ピーピー島・クラビ紀行 2018 その−(24) 早朝のパトン・ビーチを歩く−1

【写真−1 観光地の朝は遅い】

 

 夜は猥雑なパトン・ビーチも早朝は爽やかで、早起きしてビーチへ。写真−1を撮った時間は6時前のビーチに面する横丁で、店はシャッターを下ろしているが地元の人向けの屋台は開いていた。徹夜で遊び疲れた若者だろうかトボトボ歩いているのが面白い。

 

【写真−2 科学的に証明された水質検査はあるのだろうか】
 

 早朝のパトン・ビーチは写真−2のようにかなり潮が沖まで引いていて、所々に潮溜まりが。ただし、潮なのか生活排水なのか分からない水溜りもあって、この海も爆発的な観光客の多さと都市化で『汚水溜め』のような状態になっているのではないか。


【写真−3 昼間の芋洗い状態から比べると嘘の様な光景】
 

 水辺から海岸を見ると昼間はズラリと並べられている寝椅子が、写真−3のように綺麗に重ねられて整理されている。これを見ると毎日、パラソルと共に並べては片付ける繰り返しのようで、商売とはいえ結構忍耐の要る仕事のようだ。


【写真−4 そういえば今年は『戌』年】
 

 早起きして砂浜の上を歩いたり、ジョギングをする人も目に付くが、どこにでもある落ち着いた朝の海。写真−3はそんな浜辺で見かけた野良犬か飼い犬か分からない犬の姿。犬にとっても早朝の浜辺は気が休まるのか慣れた様子で海を眺めていた。


【写真−5 広い海岸の割にはゴミが少ないのはこういう努力があるため】
 

 こちらも寝椅子やパラソルをまとめている一角になるが、写真−5のように箒と塵取りを持って浜の掃除をしている。同じ色のシャツを着ているから仕事として行っているのであろうが、こうして地味に手当てをしているから浜の美化は保たれる。

 

【写真−6 この海で多くの死者が出たのを観光客はほとんど知らないようだ】
 

 目立たない浜の樹の下で見つけた写真−6の『津波危険地域標識』。2004年の『スマトラ沖地震』でこの海岸沿いを含めてプーケットは大被害を受けたが、津波への対策は高台へ逃げるか内陸に逃げろといった程度で、また津波があったら目も当てられない。

 


 

author:cebushima, category:プーケット・ピーピー島・クラビ紀行 2018年, 18:56
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私の捨てられないTシャツ その−(1) 2度目の八丈島の旅で

 Tシャツという言葉は日本語に定着しているが、英語圏のフィリピンでもTシャツそのままで通じるから、英語圏では共通語になっているようだ。もっとも、フィリピンでは襟付きのいわゆるポロシャツという種類も、Tシャツと呼ばれているからその範囲は広い。

 

【写真−1 八丈島近海で見られる魚をデザイン】


 従来下着と見られていたこのTシャツが街着として広まったのは、1951年公開の『欲望という名の電車』の中で、主演をしたマーロン・ブランドが着こなしてからというが、同時代のジェームス・ディーンの影響も大きいのではないか。

 確か1955年公開の『理由なき反抗』でディーンがTシャツの袖に煙草の箱を巻き込むシーンがあって、その様子を真似する若者が続出したという。と前置きは長くなったが、ボロボロになって捨てるか雑巾にでもすれば良いが、捨てられないTシャツにまつわる思い出などを綴ってみたい。

 写真−1のTシャツは伊豆七島の『八丈島』で購入し、その年月日もしっかり覚えている。八丈島には高校生の頃行ったことがあって2回目になるが、同時期に伊豆大島、三宅島にも行っていて何となく島に憧れていた時であった。

 最初の八丈島行は年末年始に同級生と行ったが、島の最南端で初日の出を迎えようとテント、寝袋持参で渡った。その時、島の道筋の空き地でテントを張っていたら、近くの人から『家に来てご飯を食べないか』と誘われ、遠慮なく訪ねて島の正月料理をご馳走になった。

 その時の島の正月料理が何であったかもうよく覚えていないが『島寿司』を食べたことは忘れていない。島寿司というのは江戸前でいえばいわゆる『漬け寿司』で醤油に漬けたネタを寿司飯に乗せるが、ワサビではなく黄色い練りからしを使うのが特徴となっている。

 しかし、その時の味は全く覚えていず、せっかく見ず知らずの高校生にご馳走してくれた家の人に申し訳ない気持ちがある。また、この時初めて『ドラム缶風呂』というのに入れてもらったが、こちらもどういう具合であったかすっかり忘れている。

 テントを張った場所も良く覚えていず、今思うに八丈富士を眺められる場所に張ったと思われるが定かではない。さて、その時、予定通り島の最南端の原にテントを張って日の出を待つが、同じようなことを考える者は居て、他にも東京の大学生がテントを張っていた。

 そうした思い出のある八丈島だが、2回目の時は1996年の8月下旬で、この時小生は中国で仕事をしていて、日本へ一時帰国。この前年の1995年は1月に『阪神大震災』があり、3月に『地下鉄サリン事件』のあった年である。

 家人は日本の学校で勉強をしていて、夏休みなので、一緒にどこかへ旅行することにして、場所はどこか忘れたがどこかの旅行代理店の店先に八丈島旅行パッケージのパンフレットがあり、シーズンが終わる時期で案外と安かったので決めた。

 

【写真−2 このように穴が開いても捨てられない】


 東京・竹芝桟橋から乗った船の名前は覚えていないが、初めて八丈島へ行った時の船よりかなり大きかった。八丈島は東京から300キロほどの距離に浮かび、面積は山手線内側とほぼ同じの73平方キロ弱ある。

 船は途中、三宅島に寄港して八丈島に到着したが、その時接岸した港の様子はかつてより整備されている感じがした。パッケージ旅行なので宿泊先も決まっていて泊まったのはマンション風の建物で、島には少々派手なたたずまい。どうもバブル時期に造られた施設のようだ。この建物は今も残っているらしいが、ホテル業務をやっているのかどうか分からず、バブルの遺跡としてあるようだ。

 島内もガイド付きのバスに乗ってあちらこちらを巡るが、こういう巡り方は楽で良いが、その分お仕着せ通り一遍でしかなく面白くないが、その時に土産店で購入したのが写真のTシャツになる。

 写真−1と写真−2で分かるように既に襟まわりや裏は穴が開いていたりして廃棄処分になって良いが、このよれよれになったTシャツ、肌に馴染んで寝る時に着用すると心地良く捨てる気にならず、20数年経っても命を保っている。

 

【写真−3 四半世紀経っても埃を払うと焼きたての様な輝き】


 さて、八丈島にはこの時、2泊か3泊したと思うが、自由時間の時に島の案内を見て『八丈焼』の窯元で焼き物が出来ることを知り、そこを訪ねる。どういう窯元であったかもう覚えていないが、写真−3の左が家人のコーヒー・カップ、右側が小生の抹茶茶碗で、コーヒー・カップにその時の日付けが彫られていて正確な年月日が分かった。

 八丈焼と書いたが使っている土は焼き上がり色は焦げ茶色で、火山で出来た八丈島には粘土質の土はないと思うから、どこかの産地から取り寄せたのではないか。

 

 この八丈島の土といえば、特産の絹織物の『黄八丈』の黒い色は泥に付けて発色させるので、そういった田圃の土が島にはあるので、あるいはそれを焼き物に混ぜているのかも知れない。

 

 こういったお遊び的な焼き物は土を紐状にして積み上げて成形するが、数時間では形を作るのがやっとで、乾燥、成形、釉薬掛け、焼成はとても無理。そこは上手くしたもので、窯元ではそれら作業を引き受けて完成の暁には宅配便で家まで送ってくれる。

 

 忘れた頃に確かに届いて、包装を解いてみると結構綺麗に仕上がっていて、恐らくだいぶ直してくれたのだと思うし、茶碗の高台など手慣れた人が成形したと分かるが、八丈島観光の良い記念になったのは確か。

 

 この茶碗はお茶をやっていた母親にあげたが、直径14センチもある大振り、重いためか母親は一度も使わなかった。その母親が亡くなった時に遺品を整理していたら出て来たのでセブに持って来た。

 

 やはり母親遺品の茶碗や茶道具などもセブに一緒に持って来たが、母親は京焼の様な華麗な軽い茶碗が好みで、写真の様な武骨な感じの茶碗はどうも好まないのが分かり、せっかくあげたのにどうして使わないのかが分かった。

 

 そういえば小生自身、若い時は益子焼や越前焼の様な、無骨な茶色っぽい焼き物を好んだが、今は白磁の様な白い焼き物に心惹かれるようになり、昨年四国を旅行した時に松山市郊外の砥部焼の窯元を訪ねたが、砥部は白磁に絵付けをした焼き物で、コーヒー・カップや飯茶碗をいくつも買い込んだ。

 


 

author:cebushima, category:私の捨てられないTシャツ, 18:27
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