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想い出のホンジュラス暮らし その(30) 2年ぶりのセブ

 10月(2008年)上旬の土曜日、セブに到着した。次の日曜日は『セブ運動会』が開催されるので、挨拶がてら見に行く。2年ぶりに会った補習校の子どもたちは皆頭一つ以上大きくなり、大人びたのが良く分かる。


【写真−1 名前は『タロー』 2013年3月9日に死す】
 

 2年も自宅を留守にすると『こんなものあったかな』と、忘れているものも多い。白い犬を飼っていた。到着当時はすっかり忘れているようで少々がっかりしたが、次の日には思い出したというより慣れたためか、2年前と同じ仕草を見せてくれた。

 街の様子では、交差点にある信号機がほとんど機能していない。フィリピンは信号機のない方が流れは良いという話もあるが、メインテナンスをしない怠慢による言い訳である。

 車も増えたがオートバイもやたらに多い。それも無謀運転が目立つ。年末に知人の夫婦がオートバイで転倒し死亡したし、ニュースでもバイク事故が数多い。セブに住み始めた1991年にオートバイを買い、セブ島内をくまなくツーリングした記憶を持つが、当時はオートバイも車もまだ少なく、道路は独占状態で飛ばせた。

 バイクが爆発的に増えたのは、ジープニーの運賃値上げに安い中国製の製品、月賦制度の整備などが理由と思われる。車も韓国の中古車が目立つ。本来、フィリピンでは中古車輸入はトラックのみ可能なのだが、輸入書類をごまかす、あるいは政治屋が絡む密輸で大っぴらにやっている。

 

【写真−2 センター・ラインを平気で超えて走る無謀な運転が多く自爆事故も多い】

 この汚職行為は、警察幹部が多額の金を所持しヨーロッパで捕まったり、農業省元高官が予算の使途不明金を追及され、アメリカに逃亡し強制送還されたりで、浜の真砂と同じで話は尽きない。毎度毎度で、追及する方もされる方も時間が経てばウヤムヤで、何ひとつ究明、解決しない。国民もそんなものだと思っているところにこの国の問題がある。

 

 相変わらず海外からの『送金経済』が堅調なためか、消費は盛んで、セブの2大モールも増築されていた。コーヒーで有名な『スターバックス』が6店に増えていた。2年前は2店だけだった。コーヒーよりも甘く冷たい品物を飲んでいるのが圧倒的で、ハンバーガー屋で鶏のから揚げが一番売れているのと同じで、コーヒーを飲む層が急増したわけでもない。

 激動しているのはドル相場で、ドルが90円を割る事態で、ほんの少し前が108円くらいだったからアレヨアレヨという間のドル安円高である。円とペソも連動して1万円が5000ペソ以上のレートになっている。一時期は3500ペソ前後だったから、大変な違いである。

 ただ、韓国ウオンなどは半分くらいに下がっているのに、ペソが不思議に持ちこたえ、暴落にならないことである。海外からのドル送金でドルが余っているためなのか、見かけは強い。

 

【写真−3 これは2013年撮影 今はもっとビルが建つ元日本海軍特攻隊基地】

 

 建築需要が旺盛で市内のあちらこちらにビルが建ち、建設中のビルも結構多い。これらも今回の世界的な金融・経済危機によってどうなるか分からない。実際、セブの産業である家具業界が思わしくなく、廃業やら首切り縮小のニュースが連日のように流れる。 私の知っているセブでも草分けの、品質に定評のあった家具工場が廃業してしまっているくらいだから、相当な打撃を受けている。
 

 セブに来る外国人は数年前から韓国人が一番多く、ホンジュラスに赴任する前は猛烈な韓国パワーがセブを席捲していた。ところが帰ってみるとその勢いが見られず、街でも韓国人の姿が減ったように見える。元々、セブは安く英語留学ができるという理由で韓国人学生が増えたのが始まりだが、こんなにウオンが下落するようでは苦しい。韓国人に依存する観光業界も同様であろう。
 

 もっとも、フィリピンというのは元々貧しく、私が初めてフィリピンに来たその昔、町中で何もしていない人々が目につき、皆失業者に見えたが、実際そうだった。今も右肩上がりの数字ながら好転したとはいえない。

 世界不況の影響といっても最悪でも元に戻ってしまえばいいだけだから、あまり心配していないようだ。案外しぶとく生き残れる国なのではないか。このあたりが資本を持たない途上国の強みかも知れない。結局、たいして変わっていないというのが実感である。自分自身だって変わらないし、2年くらいでは人間も土地柄も、そうそう変化するものではないようだ。

 

 (後日談: これらの文を書いて既に10年経つ。10年ひと昔でリーマン・ショック後におかしかった頃など嘘のように、現在のセブは建築需要が盛んで、至る所で中層の20階建てビルが完成、あるいは施工中である。その多くはマンションになり、そんなに需要があるのかと疑問符もあるが、この業界は強気で不動産・建設バブルなど何のその。そのくらいの強気でないとやっていけない業界だが、結局馬鹿を見るのは買わされた側であることは国を問わず明らか)


 

author:cebushima, category:想い出のホンジュラス暮らし, 20:42
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想い出のホンジュラス暮らし その(29) アメリカ経由の帰国

 2008年10月の上旬にホンジュラスを離れた。夫婦で2年も暮らしていると生活用品は増え、引越し準備が大変だった。帰国時には2人で4個のトランクしか運べないので、余分は妻が事前にロスアンゼルスに住む妹まで『運び屋』をやった。航空会社のマイレージを利用したので往復ただであった。
 

【写真−1 帰国時の荷物 この他に大きなスーツケースが一つ】
 

 帰国のコースはホンジュラス―ヒューストン―ミネソタ―ロスアンゼルス―日本―マニラ―セブで、10日間の日程である。ミネソタには妻の姉夫婦が住んでいる。もうカナダに近い緯度なので初秋の感じで、メープルやオークといった家具材でおなじみの樹木が多い。

 小さな湖沼が点在し、岸辺には数多くのボートが置かれるが、冬季は雪の多い所だという。州都セントポールやミネアポリス見物をしたが、ニュースになった崩落した橋の上を車で通り過ぎたのが印象深い。

 

 ミネソタでは白人系の姿しか見えなかったが、ロスアンゼルスに来るとアジア系、ヒスパニックなどが目立つ。滞在中に散髪をしたが、理容師が聞きなれない言葉を話しているなと思ったら、アルメニア人だった。人種の坩堝とはよくいったものである。
 

 ハリウッド、ロングビーチと車で案内してもらったが、何といっても道路のすごさである。アメリカは車社会とは知っていたが、片側8車線などの道路を目の当たりに見ると、日本の高速道路など農道に見えてしまう。

【写真−2 ミネソタ州の道路にて これが無料だから凄い】

 車がないと暮らせないのに、CO問題に取り組む気がなく大きな問題を残している。『リーマンショック』直後のアメリカなので、少しはがっくり来ているかとは思ったが、あの膨大な車を見るとまだ底力は感じる。

 余談だが、サブプライムが怪しくなった頃、日本に一時帰国した。その時、外資系の投資会社に勤める知人を訪ねた時、『ドルは90円を割る』と冗談めかしていわれた。実際そうなってしまったが、その時は120円近かったからまさかとは思った。

 

 妻の姉と妹がアメリカに住んでいるが、姉の方は介護士、妹は看護師で永住組である。フィリピン人のアメリカに対する思い入れはここに書くまでもないが、日本人には想像できないくらい強烈である。カリフォルニアには100万、全米で300万のフィリピン人がいるという。同じ職種でフィリピンとアメリカでは10倍以上もの収入が違うから無理もない。

【写真−3 今はホテルのかつての豪華客船クイーン・メリー号を望む】
 

 アメリカの料理というとステーキになるが、量はあっても美味くはない。滞在中は韓国、タイといったエスニックな店に行った。それぞれの国別に店が固まり、アメリカというのは人工的に作られた国だなと思った。

 この中で韓国人の活きの良さが目立った。海鮮料理で有名な店に行ったら、韓国人経営で客も韓国人ばかり、アメリカであることを忘れる喧噪さだった。鮨は今やロスアンゼルスという話もあるが、すぐ日本に立ち寄るので行く気はなかった。

 

 アメリカ国内では空港のチェックが厳しく、公用パスポートを持っていても私と妻は別の列に行かされチェックを受けた。チケット手続きで自動的にそういうコードが打ち出されている。

 驚いたことに車椅子に乗り、点滴ビンを抱えた弱った老人も別でチェックされていた。国を挙げてのヒステリー保安体制は、まさにブッシュの悪政である。靴を脱げだとかベルトを取れといわれるたびに『パンツを下ろしてやるか』と思うのは私だけではないだろう。

 

 日本は健康診断と帰国手続きで寄っただけで数日しかいなかった。1年前にも帰っているのでこれといって感慨も薄い。まだ、10月の気候の穏やかな時に帰って来たから良かった。

 マニラではマニラホテルに泊まった。ここは昔から泊まりたかったホテルだが、敷居が高くて敬遠していた。これが今回安く泊まれるので利用したが、韓国、中国の団体客が制圧し、すっかり品格を落としてしまった。

 このホテルも後発の米系ホテルに客を取られてしまったので仕方がないのであろう。ロビーなどに最高級ホテルの面影を残すが、昔日の栄光いずこにといった情けない有様である。

 

 マニラは雨模様で涼しかったが、2年ぶりのセブは暑く湿気っぽかった。いつもセブに降り立つとムワッとした空気に包まれるが、『ああ、セブに帰って来た』と思うのはその時である。

 (後日談: セブへ帰って10年近くなり、アメリカでは臆面もなく大嘘をつくトランプ大統領が誕生。私の見立てではトランプは元大統領の肩書が欲しいだけで、政策などどうでも良く、任期を全う出来ずに何れ辞めることになっても何にも痛くなく、本来のビジネスに利用する目論見で大統領になった。それほど元アメリカ大統領という名称は最高の商標になる)



 

author:cebushima, category:想い出のホンジュラス暮らし, 19:38
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想い出のホンジュラス暮らし その(28) 帰国準備

 夫婦で2年間も1ケ所に住むと身の回りに『物』が増えてくる。必ずやってくる帰国のことを考えて、物を増やさないようにしたが、旅行者として割り切るには長過ぎる期間でもあり、物は増えていった。

【写真−1 左の白い車を運転していた 右には名車のカルマンギア

 この中で、最大の物は『車』であった。韓国製の2001年式四輪駆動の中古SUVである。こちらでの中古車を手に入れる方法は、新聞の売りたし欄に掲載された車を買うか、車のガラス窓にSe Vende(売りたし)と、電話番号を白ペイントで記している車を見つけて買う方法が多い。専門の中古車販売店もあるが、貧弱でこれから市場として成立する過程のようだ。私の場合、後述の方法で手に入れた。

 帰国5ヶ月前から車を処分するように動き出した。こちら流にガラス窓に書いて反応を見る。時々電話がかかってくるが、買いたいというより値段を知りたいのが目的のようだった。結局、車は農業で派遣されているS垢凌佑坊茲泙辰拭O辰決まったのは帰国ぎりぎりで、決まらなかったら配属先にでも寄贈するかと思ったくらいであった。

 

 3ヶ月前になるとJICA事務所から帰国手続きについての連絡が入り、帰路の旅程を決めなければならない。妻の姉妹が住むアメリカ経由で帰ることに決めて、航空運賃をインターネットで算出すると、事務所の提示する限度額より700ドル安い。2人だから1400ドルも浮く。ところがEチケットでは駄目だとJICAの担当にいわれる。Eチケットは領収書ではないためという。

 Eチケットというのはそれ自体が領収書になっていて、チャンと明記されている、念のため航空会社に領収書発行の有無を直接問い合わせたら『質問自体が理解できない』ときた。

 結局、首都にある指定旅行代理店で、こちらが苦労して作成したスケジュールをそのままコンピューターに打ち込むちょろい仕事で代理店に商売をされて、JICA希の高いチケットを購入した。自分の金を出すわけでもないので、喧嘩をしても仕方がないが、JICAのこういった金の使い方には釈然としないものが残った。

【写真−2 ホンジュラス松で作ったテーブル 右側が製作者】
 

 こちらの借家は家具なしが普通で、我が家も同じだった。ベッドとテーブルだけは作ってもらい、あとは安いプラスティックの椅子などで間に合わせた。衣類などはトランクに入れたままと部屋に吊るして2年間を過ごした。台所用品だけは必需品なので、冷蔵庫、ストーブを購入。これらは大家と交渉して家賃をまけてもらい一括で引き取ってもらった。
 

 親しくなったホンジュラス人が帰国間際になると『あれはどうする』とか『これが欲しい』とやってくる。そこである日『ガレージセール』を行った。不用品は粗大ゴミとして捨ててしまう日本人の感覚から、妻のつける値段は私から見て少々高めに思えたが完売した。ホンジュラス人にとっては買い得だったのであろう。
 

 こうやって持物を処分して得た収入は持って帰っても仕方がないので、その資金を元にイベントをすることにした。2年間無事に過ごせた地元の人々への恩返しという趣向である。神輿の生まれたコマヤグアで神輿を担ぎ、併せて『日本文化』の紹介をプログラムに組んだ。

【写真−3 文化会館中庭にて 楽しく想い出に残る1日であった】

 同期のSVに国立吹奏楽団を指導している者がいて、それを呼んでコンサートもする。2年間で撮ったホンジュラスの様々な写真も飾った。会場は改修なった文化会館。当日は協力隊の青年達も各地から集まって手伝ってくれた。

 好評だったのは来場者に浴衣を着せて神輿をバックに写真に撮り、即印刷してプレゼントするサービスだった。楽団も、神輿担ぎも成功した。妻も折り紙を指導した。こういった行事はJICAの予算をつけてもらって行うのが多いが、自腹でやった方が制約はなく楽である。

 

 この時期は身辺整理も済んで旅行でもする時期だが、帰国間際に大きなイベントを組んでしまって、帰国準備と重なりバタバタしたが、やれる時はやれるものだと最後に『やった』と充足感を得た。

 数日後、銀行に口座解約に行った時、行員から『良かったね』といわれて嬉しかった。配属先の人々との別れ、借家の掃除をし大量のごみの処理、トランクにまとめられた荷物を眺めて、ホンジュラスを離れるのだと実感した。

 (後日談: ホンジュラスに一緒に住んだ妻は今もSNSを通じて、親しくしていた家族と交流を続けている。あの頃は小さかった子ども達も10年近く経つと、すっかり大人びてしまう変わりようで、それだけこちらも年を重ねたことになる)

 


 

author:cebushima, category:想い出のホンジュラス暮らし, 17:52
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