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へそ曲がりセブ島暮らし2018年 その(17) 『世界最長の徒歩旅行』に出て来るホンジュラス

 1990年初版発行『世界最長の徒歩旅行』を読んだ。この本は日本からセブに送った段ボール箱入りの本が長らくそのままになっていて、一部の箱にシロアリ被害を受け開梱した中にあったもので、読んだ記憶がないので改めて開いた。
 

【それにしても凄い旅だ】


 このように書名などに引かれて買って死蔵してしまった本は多く、この本の場合、細かい字でピッシリ書かれていて、翻訳本に付きものの回りくどい表現が多く、読み始めたものの放棄したのではないかと思う。

 この本の筆者はイギリス人で、7年の歳月をかけて南アメリカ最南端のフェゴ島から北アメリカのアラスカ北端まで歩いた記録だが、原著は400ページを超えるのでこの翻訳本ではその半分以下のページに抑えられている。

 そのため、南端からメキシコへ入るまでの記録が重点的に掲載されていて、普通、南北縦断というと北米大陸側の太平洋側を北上するが、この旅は北米大陸を西から東へ横断するなど珍しいコースを取っているが本書では省略されている。

 その中で、中米のニカラグアからホンジュラスを経てグアテマラへ入る様子も書かれていて、ホンジュラスには家人と共に2年間住んだことがあったので、その部分を先に読んだ。

 徒歩旅行中のニカラグアは内戦の真っ最中で、そういう危険地域を通り抜けたことに驚かされるが、ニカラグアと国境を接するホンジュラスのエル・パライソの町に入ってようやく安心したという。

 エル・パライソへは行ったことはあるが、小さな町で当時はエル・パライソ南西方向にあるチョルテカがニカラグアへの要路で、その町へも訪れているが、大型トラックの多い道であった。

 著者はエル・パライソから首都テグシガルパを目指し、次にコマヤグアの記述が出て来るが、この間は車でも通り抜けるには急な山道になっていて、車で何度もこの道を往復したことを想い出す。

 

コマヤグアはホンジュラスで2年住んでいた場所で想い出も多いが、筆者が一夜の宿を乞いた宮殿の様な司教の館というのは、借りていた家の裏手にあった今は博物館となっている建物ではないかなどと想像を巡らす。

 

 ホンジュラスの地図を持ち帰っているので筆者のルートを辿ってみると、ホンジュラス第2の都市サン・ペドロ・スーラを経て、次の国グアテマラ方面に向かうが、グアテマラ国境への途中の町の経由ルートに、記述が誤りなのか訳文がおかしいのか分からない点もある。

 

 グアテマラ国境近くにはマヤ帝国の『コパン遺跡』があって、その遺跡近くにグアテマラへ抜ける道があり、この国境を家人と見物に行ったことがあるが、筆者はそこからではなく南にある国境からグアテマラへ入った。

 

 歩いて旅行する人は古今東西多いが、地球の赤道の周囲は4万4千キロあり、これ以上の距離を歩いた人を『長距離徒歩旅行者』と呼ぶらしいが、本書の副題に『南北アメリカ大陸縦断3万キロ』とあるように、少々距離は足りないが1980年代初めには紛れもない偉業であることは確か。
 

 2000年に45歳のカナダ人が11年間かけて64ヶ国、7万5千キロを歩いた記録があり、日本人がリヤカーを引いて40年以上かけて少しずつ積み重ねて5万キロ歩いた記録もあるが、他にも無名、有名の徒歩旅行者は数多いと思われる。


 小生も歩くことは好きで、学生の頃に箱根から京都三条大橋までの東海道を歩いたことがあり、真夏の暑い時期に荷物を背負ってよくぞ歩き切ったと、今思い出しても不思議で若いというのはそういうものだなと思う。

 

 東海道を日本橋から京都まで歩くと考える人間は珍しくなく、その時鈴鹿峠近くで道連れになった長野県出身の学生がいて、京都まで歩いたがその時は旅の後半もあって歩きは順調で、1日50キロ以上を記録した。

 

 この当時の旧東海道筋はまだその面影を残す宿場町と建物がかなり残っていて、最後の江戸を体験したと思っているし、公園や軒下で野宿しても不審者として咎められることはなく、今の様な監視社会ではこの手の旅行は難しくなったのではないか。

 

 このアメリカ南北大陸縦断の旅で想い出したが、かつて北海道を自転車で回った時に道東で会った旅行者と意気投合して、『南北アメリカ大陸を2人乗り自転車で走ろう』と話しているが、その壮大な夢もいつの間にか消えてしまった。

 

 この著者の奥さんは日本人で、最初は南端から一緒に歩き出したが、旅行中に妊娠し日本へ帰り産んでいるが、著者は時々コース途中で妻と会ってたりして旅を続け、最終的には2人の子どもをもうけている。

 

 その日本人奥さんもなかなかの人物と思うが、今もどこかでこの家族は世界のどこかで生活しているのであろうか。旅の途中に生まれた子どもの歳を考えると、もうかなりの年齢になっていると思われる。

 


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2017, 18:29
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へそ曲がりセブ島暮らし2018年 その(16) 今年のセブのゴールデン・ウィーク

 4月から5月にかけての日本の長い連休は『ゴールデン・ウィーク』と名付けられているが、これは和製英語で海外では全く通じないし、他の国はこの時期は連休などなっていない。

【セブのとあるビーチ波打ち際は澄んだ海に見えるが汚染は進んでいる】

 辛うじて5月1日が『レーバー・デー』、つまり『労働者の日』として世界的な記念日になっていて、休日にする国が多く、フィリピンも休日であった。

 この日を日本では『メーデー』と呼び労働者団体などが集会を持つが、このメーデーという言い方も海外ではほとんど通じない。

 しかしメーデー、つまり『May day』そのものはヨーロッパで春の訪れを祝う意味で使われたらしいが、1886年5月1日、アメリカの労働組合が労働条件改善を求めてストライキを打ったのをきっかけからこの日を労働者の記念日にしたという。

 アメリカ発祥の労働者の日となるが、そのアメリカのレーバー・デーは現在9月の第1月曜日になっているように、国によって違っているが社会主義国ではこの日をレーバー・デーとする国が多く、先年住んだラオスも5月1日が労働者の日であった。

 日本は5月1日のメーデーを休日にしていないが、4月29日の天皇誕生日(名称は変わった)、5月3日の憲法記念日、5日の子どもの日(名称は変わった)と続くことを考えると休日にして良いと思うが、これは国が労働者を敵視する態度が未だ根強く残る状態では難しいであろう。

 その代わりに日本は休日が土曜や日曜に重なるとずらして連休にするような妙案を作り、週休2日制の普及と共に連休になるようにし、昔の様な飛び石連休というのはなくなった。

 かつて学生の頃は休日が日曜に重なると損をした気分を持ったが、これもなくなり悪いことではないが、かつての天皇誕生日を天皇死後に『昭和の日』、その後日付をずらして『みどりの日』として存続するなど、皇室の祭日中心の姑息な手段を取るなど馬鹿馬鹿しい。

 記念日などと大袈裟にせず、単純に5月の休日とすれば良いと思うが、元々日本の休日というのは天皇家の行事、祭日が休日に変わっただけなので、変えることは難しいであろう。

 さて、この長い休みは人の移動時期で、内外に出かける人が多い。特に海外に出る日本人も多く、それを待ち構えているのが海外の観光地になるが、セブも例外ではない。

 今年はセブよりもリゾートとして著名度の高いボラカイ島が、4月26日から最長6ヶ月の観光客の立ち入りを禁止する措置に出て、その流れがセブに来ると業者は手ぐすね引いていて、他人の不幸はこちらの幸福と容赦がない。

 ボラカイ島の閉鎖は、他の項で都度書いているが、きっかけは大統領がボラカイ島を視察して『汚水溜め』とこき下ろしたのが始まりで、フィリピンでも1、2を争う観光地を6ヶ月も閉鎖してしまうというのはさすがにやり過ぎという声もあるが、それだけ島の汚染が酷かったことになる。

 小さな島に年間200万人が訪れ、それが出す生活排水やゴミは莫大なものだが、排水は処理せずに海に垂れ流している施設と違法建築が数多く摘発され、いわば身から出た錆が全島閉鎖を生じさせたといって言い過ぎではない。

 この問題はボラカイだけではなく、フィピン国内の著名リゾートの海は同じように汚染されていることが次々に明らかになった。

 セブなど大都市をすぐ背後に抱えているから、海の汚染は当然酷いものだが、どうも政治的な駆け引きが働いているのではないかと思わせ、表沙汰になっていない。

 こういうセブの汚い海でリゾート気分に浸らされる観光客もいい迷惑だが、観光業者は昔通りのイメージであの手この手で客引きの余念がなく、何れボラカイの二の舞になるのではないか。

 もっとも、このリゾートの汚染というのは世界的に起きていて、昔の様な南の楽園のイメージなど既にどこにもなく、水質汚濁やプラスティック・ゴミなどで汚染が進んでいるのが現実である。

 さて、今年の連休中のセブの天気だが、雨がこの季節には珍しく2回も降り、肌寒い日もあって全般的に天気は良いとはいえず、日本が長期休暇の時期、セブの天気はあまり良くないと体験的に感じていたが、今年もやはりそのジンクスは当った。


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2017, 22:22
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へそ曲がりセブ島暮らし2018年 その(13) 最後の池波正太郎『鬼平犯科帳』

 去年、日本からセブへ遊びに来た知人が土産代わりに池波正太郎『鬼平犯科帳』の文庫本24冊全巻を持ってきてくれた。

【この文庫本2004年5月第5刷版で419円】

 写真はその最後の巻で『誘拐』と名付けられているが、池波は1990
年5月に急逝していて、この巻は中途で終わってしまい、全24巻(番外が1巻ある)で犯科帳シリーズは終わった。

 このシリーズは人気があると思えて、持ってきてくれた全巻はセロファンで1つに丁寧に包まれ、一括して販売している。

 池波の作品は単発的に読んでいて、この犯科帳シリーズも何冊か読んでいるが、改めて全巻を最初から読み通した。池波は新国劇の脚本を書いていたために、表現が舞台的でその区切りの良さが読者を引きつけたのではないかと思え、スイスイと読み進んだ。

 池波のことに触れると1923年生まれ1990年に67歳で亡くなっていて、今年は生誕95年、没後28年になる。

 1923年というのは大正12年の9月1日に『関東大震災』のあった年で、池波が生まれて7ヶ月余後になり当人は記憶はないだろうが、生誕が浅草なので両親は命からがらで生まれたばかりの池波を抱えて避難したのではないか。

 東京下町育ちで小学校卒、兜町の株屋で働いていたのは有名な話だが、戦時中は旋盤工をやり、召集されて海軍に入り、横須賀海兵団に入団。

 横浜磯子にあった『横浜海軍航空隊(801部隊)』に配属されるが、この部隊は日本で最初の飛行艇による外洋偵察、哨戒を主とする部隊として発足し、池波は電話交換手として過ごす。

 その後、鳥取県の美保航空基地(現在の米子空港)に転属し、そこで敗戦を迎え、海軍二等兵曹に進級する。この二等兵曹だが、陸軍では伍長と呼ばれているもので、何れも兵クラスより上位の最下位とはいえ下士官になる。

 敗戦時のドサクサで、一階級上げるというのは陸海軍共通のことだが、それでも召集兵が3年で下士官になるというのは異例な方で、池波の軍隊勤務はかなり優秀であったようだ。

 戦後の池波は東京都の役人になり、長谷川伸に師事し、新国劇と関係を持つようになる。小説は若い時から書いていて、1956年に『恩田木工』で直木賞候補になり落選するも、1960年に『錯乱』で直木賞を受賞する。

 さて、鬼平犯科帳に戻るが、1967年に雑誌オール読物に掲載した『浅草御厩河岸』が犯科帳の長谷川平蔵が出てくる最初の作品となり、以降同誌に書き続け全部で135話となった。

 

 映画、テレビ、舞台に何度も作られているが、テレビでの長谷川平蔵役は8代目松本幸四郎(現初代松本白鸚)、丹波哲郎、萬屋錦之介などが演じたが、一番はまり役は2代目中村吉右衛門(現人間国宝)でそのイメージは定着している。

 

 中村吉右衛門は初代白鸚が1969年にテレビで平蔵役を演じた時に、第2シリーズで息子役の辰三で出演しているが、これは実生活でも親子になり、吉右衛門が平蔵役を引き受けたのは実年齢と平蔵が同じになるまで待ったというエピソードがある。

 

 鬼平犯科帳のテレビ・ドラマといえばこの吉右衛門の演じたシリーズといわれるように、1986年から2016年に終了するまで吉右衛門の犯科帳シリーズは続いた。

 

 現在も、昔の犯科帳シリーズを視聴でき、時々観るが30年以上前のテレビ・ドラマだから出演俳優には物故した役者が多く、役者は死んでも映像を残すとは良くいったものである。

 

 芸達者な存在感を表す3代目江戸家猫八、若い頃から渋かった蟹江敬三、先頃亡くなった左とん平など懐かしい顔がドラマでは顔を出す。

 

 また、溌剌とした時代は過ぎたが梶芽衣子も重要な役で出演しているし、今や演技巧者としてドラマに引っ張りだこの香川照之が端役に近い役で出、17歳の時大林監督の『転校生』に主演した尾美としのりが頼りない役で出ていたりと、別の楽しみが古いドラマにはある。

 

 鬼平犯科帳シリーズはマンネリとの指摘もあって、確かに筋の設定、展開が似通ったものが多い。しかし、これは映画『フーテンの寅』シリーズと似たようなもので、変調しないことが読者に伝わる要素の一つになっているのではないか。

 

 そのため、この犯科帳シリーズを何度も読み返しても飽きないという人もいて、そういえば小生の父もこのシリーズを枕元に積んでいたが、何度も読み返した口かと思い出す。

 

 平蔵役を演じた吉右衛門は歌舞伎俳優らしく、その所作は綺麗に見せているが、時代劇が段々製作されなくなるに連れて、このように安定した所作が出来るのは伝統芸能、とりわけ歌舞伎役者にしか残っていないのでは思ったりする。

 


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2017, 18:25
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