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東京慕情 その(25) 千住篇−10 北千住駅西口の駅前通り

 千住は足立区になるが、千住何丁目という地名はあっても、北千住というという地名はなく、北千住というのは上野から出ている常磐線の駅名であると再三書いている。

【写真−1 写真を撮った時は雨で少々暗かった】

 駅名を『千住』と付ければ良かったのに北千住となったのは、隅田川の向こうに南千住という駅があって、あちらは南だからこちらは北にしようとした、当時の鉄道関係者の教養のなさの表れで、今更いっても仕方がない。なお、南千住は荒川区になり南千住という地名は江戸の昔からある。

 駅名の付け方で甚だしい例として埼玉県の浦和があって、昔から走る京浜東北線に浦和駅が従来からあり、東京寄りに南浦和という新駅を作り、その後新しい武蔵野線が南浦和駅に交差し、京浜東北線に北浦和駅、武蔵野線に東浦和駅と西浦和駅が出来て東西南北の駅名が生まれた。

 おまけに武蔵野線には武蔵浦和駅などという駅もあって、彼の地に位置関係を知らない人間には紛らわしく、どうも鉄道の人間は想像力が足りな過ぎる。

 写真−1
は現在の北千住駅前西口側の様子を撮ったもので、正面のビルが今の駅になる。このビルは開業当時『ウィズ』といっていたが、今は『ルミネ』になっていて、この西口は大きな変貌を遂げたが、金太郎飴の様な駅前で特徴はない。

 その昔の西口駅前は狭いロータリーがあって、その中にバスの停留所がありそれを囲む店も戦後に出来たような小さな店が多かった。それが再開発されて駅前は広がり、2階に歩行者用のデッキが設けられマルイの進出するビルが造られ、高層のマンションも造られた。

 この敷地はかつて貨物を扱う場所もあったと思うが、再開発というとこういう昔からある敷地が狙われるのは、国鉄が民営化されてJRとなり利益追求型の企業になったことと関係がある。

 写真の商店街は昔から同じ道幅で、今は語呂合わせで『1010』と呼んでいるが、商いをしている店はずいぶん変わっている。

【写真−2 一時寂れたが今はかなり人出が戻ったという】

 写真−2はこの商店街の駅寄りにある日光街道の旧道と駅前通りが交わる四つ角で、今は写真でも分かるように『宿場町通り』などと名付けているが、千住の人間は『旧道』と呼んでいた。

 この辺りは小学生の頃、千住で一番高い場所と習った事があり、確かに少し傾斜が付いているが、標高がどうというほどの高さではなく、千住が隅田川と荒川放水路に挟まれた低地、0メートル地帯の一角であることを感じさせた。

 その旧道、芭蕉が大川(隅田川)を深川から溯り千住大橋に上陸し『奥の細道』に旅立ちを記し、この道を歩いたと思うと感慨深いが、千住大橋は写真を撮った側で、前方を進むと荒川放水路の土手にぶつかるが、この放水路が掘られたのは大正年間で、芭蕉の時代は田圃と畑が次の草加宿まで続いていた。

 この旧道沿いにはかつて映画館が3館(4館)あって、土手寄りから千住東宝、千住日活の封切館があり、千住大橋寄りに『ミリオン座』という洋画専門の名画座があった。

 括弧して4館とあるのは、閉館した千住日活近くに『白亜』という服飾専門の店があって、そのビル地下に洋画専門の名画座が後年開業し、やがて閉館したが、この映画館が千住最後の映画館となった。

 写真の四つ角には今はマンションが建っているが、かつては右側角には理髪店、左角には中華そばと書いた食堂があって、いかにも気取らない千住らしい佇まいを持っていた。

 その対面、写真を撮った側の右には何があったか忘れたが、左側のビルにはかつての月賦販売会社『緑屋』があった。この緑屋は倒産して、その後いろいろ店が入ったが、今は古本の『ブックオフ』があって、そこではずいぶんまとめ買いをした。

 本といえばそのビル並びに本屋があって、1階、2階とかなりの本が置いてあって中学生時代から通ったし、晩年の父親もこの本屋で買っていた。しかし。この本屋も潰れて今は薬屋チェーンの店に変わってしまった。

 時代と共に店が変わるのは仕方がないが、この駅前通りには団子屋とかせんべい屋とか昔ながらの店が多く、特に駅前には名前を忘れたが今川焼の実演販売をする店があって、かなり客が押し掛けていた記憶がある。そういった店が淘汰されて、どこにでもあるようなチェーン店が進出してきて商店街としての特色は失ってしまった。

【写真−3 昭和30年代はかなり遠くからこの辺りに衣料品を買いに来た】

 写真−3はその商店街の日光街道(国道4号線)に近い場所にある『ヨーカ堂』の店。ヨーカ堂は今は創業者の名前を付けて『イトーヨーカ堂』というらしいが千住の人間にとってはヨーカ堂である。

 というのもヨーカ堂というのは戦後、このビルのある辺りに間口の狭い衣料品店を創業者が開いたのが始まりで当時は『羊華堂』といっていた。この辺りは戦後安売りの衣料品店がたくさん並び、その買い物客で賑わい、小生など駅に行くのに店に群がるその人達を避けながら歩いた記憶を持つ。

 ヨーカ堂は近隣の同業の店を次々買収して大きくなり、この地にヨーカ堂1号店をオープンし、急成長。今やセブンイレブンを傘下にし日本の小売業の王者といわれるまでになったが、小生の母など『あのヨーカ堂がね』と、戦後すぐの店を知っているために良くいっていた。

 この1号店、かつてと違って買い物客の流れが変わって、食品売り場はともかく、衣料や日用品売り場など客の姿が少なく閉鎖するのではと噂されていた。しかもヨーカ堂は経営刷新で、各地の店舗を整理しているが、さすがに創業の地を無くすことには躊躇われるのか、いまだこの店舗を維持している。

 このヨーカ堂を過ぎると国道4号線の千住2丁目の交差点にぶつかるが、この通りに千住4丁目−水天宮行きの都電が通っていて、中学生になってこの停留所から乗って学校へ通った。

 この交差点角には佃煮を売るような店があったと思うが、今はなくその隣りは文房具の『松屋』があった。この松屋は千住では一番の品揃えでずいぶん通ったが、店を移してからいつの間にか消えてしまったようだ。それともまだどこかで営業しているのだろうか。

 

 交差点を渡った向こうに今は貸衣装屋の店になっているが、この建物は元々は三井銀行の千住支店であり、小生が初めて銀行通帳を作ったのもこの支店で、別に三井を贔屓にした訳ではなく実家から一番近い銀行だったためである。

 そういえば、その対面側に倒産した『山一證券』の営業所があったと思うが、目抜き通りにこういった金融関係の店があると何ともシケタ感じがあって、特に銀行など3時に表を閉めてしまうから余計そう感じる。

 


 

author:cebushima, category:東京慕情, 19:12
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東京慕情 その(24) 千住篇−9 荒川放水路−2 千住新橋の今昔

 前回その(23)の中で『千住新橋』について触れているので、もう少し書き加えたい。

【写真−1 整備され過ぎて面白い区域でなくなった

 写真−1は千住新橋の千住側堤防の上流側から撮ったもので、河川敷は綺麗に整地されて野球のグラウンドになり、自転車道も作られ都会のオアシス的な空間となっている。

 しかし、この辺り一帯のかつては葦の生える遊水池のようになっていて、四手網で小魚を獲り、ザリガニ、カニを獲る絶好の場所であった。

 今、仮に当時の迷路のような草の生い茂る遊水池が残っているようであったら、子どもの水難事故が怖くて金網でしっかり立ち入れないようにしてあるだろうから、昔の親はここへは『行ってはいけない』と、注意はするもののそれほど神経質ではなく、子どもも頓着していなかった。

 そういう意味で現在の河川敷の公園化というのは事故防止の意味が強いようだが、子どもにとってどうだろうかという気もある。

 現在の千住新橋は上り下りに、それぞれ橋が架かっているが、小生が何度も橋を渡った頃は片側2車線の橋のみで、中央部に来ると車が通る度に橋が大きく揺れていたのを覚えている。

 橋を渡り切って少し行くと都バスの終点の営業所があって、確か『千住車庫』といっていたと思うが、ここから浅草寿町行きが出ていた。その傍に邦画専門の過去作品を上映する映画館があって、時々そのプログラムを見ては千住新橋を渡って観に行ったが、館名は覚えていない。

 今は土手の向こうに高速道路が長々と造られ景観を妨げているが、造られる前はどこまでも平らな風景が広がっていて、空気の澄んだ秋や冬にはその向こうに筑波山が見え、関東平野という言葉を実感させられた。

【写真−2 都電が廃止されてから一時は寂れたが今はマンションが建ち並ぶ】


 写真−2は現在の千住新橋に向かう日光街道(国道4号線)の様子で、この辺りは陸橋になって新橋へ繋がっているが子どもの頃は急な坂で新橋に繋がっていたような記憶がある。

 写した場所は日光街道を横断する歩道橋からで、この歩道橋のある辺りが千住4丁目で、水天宮へ行く都電の終点でもあり、都電が通っていた頃はそれなりに店などが並び賑やかな場所でもあった。

 写真でも分かるように今は中層のマンションが建ち並んでいるが、かつてのこの辺りには2階建ての古めかしい造りの釣り道具屋や釣り餌を売る店が何軒もあり、良く通ったものだが今はその面影など全く消えている。

 前回で触れているが写真の右に見える高いビルは元小学校跡地で、その校庭で野球をした記憶を持つが、まさか廃校になってビルが建てられるとは思っても見なかった。

 都電が廃線になってからこの通り沿いの商店は寂れて次々と店を閉めたが、何といっても交通の要所の北千住駅には歩いて10分程度と近く、不動産開発会社が次々とマンションを造りだし、今は千住は住みたい街のランキングでかなり上位に入るようになったというから変われば変わるものである。

【写真−3 橋の下というイメージには遠い光景】

 写真−3は千住新橋の橋下の様子で草加方面を写しているが、これでも分かるように橋は上下2本架けられている。これらの橋は1976年と1981年に相次いで架けられていて、小生が渡った橋は初代で1924年(大正13年)に架けられている。

 この時期は荒川放水路が開削中で、関東大震災もあったし、後年の戦争にもアメリカ軍の爆撃を受けず生き残った。

 初代の橋の渡り初めは千住に住む三世代家族が渡り6月4日に挙行されたが、小生の母親はその時の模様を目撃したことを話してくれたことがある。

 初代の橋の袂に今でいうホームレスが住み着いていて、橋の下を潜って通る時横目で通り過ぎたが、橋の下というのは上からの車の通る騒音はあるものの結構快適らしく、橋の下といえばホームレスと切っても切れない関係がある。

 この橋の下で思い出すのは高校生の時に同級生と琵琶湖から大阪へ宇治川、淀川をゴムボートで下った時、終点上陸地が大阪の十三(じゅうそう)という所で、既に真っ暗になっていて仕方なく橋の下に行き、先住民のホームレスにここで寝ることを断ったら『そんな端ではなくもっとこっちへ来い』と親切にいわれた。

 焚き火を囲みいろいろ話したがそれほど変な感じは受けなかったし、これを食べろと何かをもらったが何かは覚えていない。

 十三は何本も橋が架かっていて頭上を通る電車の音が五月蠅く、良くこんな所で生活できるなと思ったが、慣れれば思いの外快適で一晩過ごした。

 それだけの話だが、人はいろいろだなと思い東京へ帰ったが、今、都会の橋の下からホームレスは消えたが、そういう時代というのはどうかなという気がする。


 

author:cebushima, category:東京慕情, 09:39
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東京慕情 その(23) 千住篇−8 荒川放水路−1

 子どもの頃、放水路へ行って川と土手の間の葦の生える遊水地でザリガニ、カニ、魚などを獲ったり、その遊水地を埋めたグラウンドで野球をすることが多かった。

【写真−1 右側が下流】

 自宅からは子どもの足で、路地裏や公園などを抜けても放水路の土手までは10
分もかからず、当時は土手といっていたように、土を盛った堤防が延々と続いていた。

 写真−1は今の放水路の堤防の様子で、斜面の部分はコンクリート・ブロックで固められているが、子どもの頃も町に面する側はコンクリート・ブロック工事が進んでいて、その急斜面を駆け下りるのが遊びの一つにもなった。

 写真−1を撮った場所は旧日光街道を千住の方から歩いて来て、堤防にぶつかる地点で、この堤防に上がって河原を挟んで横たわる川を見て、江戸川の矢切の渡しのような渡し場があったのかと長らく思っていた。

 しかし、芭蕉が奥の細道で歩いた江戸期は、まだこの辺りは一面の田圃で、その中を旧街道は真っ直ぐ草加方面へ伸びていて、今の様な川が掘られたのは大正時代になってからである。

 開削後に荒川放水路と呼んでいた川は1965年に『荒川』と改称され、放水路などという人は千住に古くから住んでいる人に限られるようになった。

 この変遷を紐解くと、秩父山系に源流を持つ荒川のその昔は、荒川は今の千住大橋までをいい、その下流は隅田川と称していたが、隅田川というのも近年のことで、江戸期は『大川』と呼んでいた。

 それが北区にある今の岩淵水門から1913年(大正2年)に洪水対策として放水路が東京湾に向かって掘り進められ、この放水路は1930年(昭和5年)に完工した。実に17年に及ぶ大工事で、工事中の1923年(大正12年)には関東大震災もあり相当な難工事であったと伝わる。

 この時の工事で収容した土地や家屋は1000ヘクタール、1300戸と記録にはあり、東京湾までの長い距離を考えると私有地は少なかったようだ。この放水路開削では小生の母親の実家の土地が収用対象になり、母親が放水路の橋上を車で通り過ぎる時『この辺りの土地はみんな家のものだった』と呟いていた。

 今と違って国の政策には問答無用の時代で、簡単に土地は収用されながらもそれなりの対価は払われたらしく、都内の納税者番付では錚々たる当時の財閥の当主より上であったなどと話していて、この土地を手放したことによって昭和恐慌もあって母親の実家の没落は始まった。

 もう一つ余計に書くならば、広大な所有地の一部でも今も残っていれば、小生はセブに住むこともなかったのではと思うものの、小生の問題ではないので思うだけ無駄であろう。

 

 放水路開削前と思えるが、その頃の実家を写した古い写真を見たことがあって、その写真に写る家の軒先に舟が吊るされていて、出水の多い地域であったことが分かり、この放水路開削で、大雨や台風時に増水して低地に出水することは少なくなったというから工事自体と現在の広々とした景観を残したことは誇って良い。

 この放水路開削で、親戚の中に放水路の用地から外れたために広大な土地を維持し、大地主として戦後も残り、昭和の時代にテーマパーク事業などを始め、一時羽振りは良かったが結局、倒産。今その跡地は集合住宅と大手スーパーのショッピング・モールになっているから、時代の流れというものは分からないものだ。

【写真−2 川向うに高速道路が出来て景観は変わった】

 写真−2は放水路が荒川であると明示した道標で、向こうに見える橋は『千住新橋』。手前に見えるグラウンドは今でこそ公園風に整備されているが、子どもの頃は土のグラウンドが広がり、回りは葦などが生える湿地帯で、特に橋の左側はザリガニやカニを獲る絶好の場所でもあった。

 そちらの川縁にはボート屋があって、鎧張りの手漕ぎボートで遊べ、同じく鎧張りのヨット『A級ディンギー』があり、中学生の頃、ここでヨットの操船を覚えた。また、同じ橋桁の袂の水面では泳げて、既に水質は綺麗とはいえない時代に入っていたが、小生など放水路で泳いだ最後の世代になるのではないか。

 写真−2の千住新橋だが、子どもの頃に慣れ親しんだ橋は既に架け替えられ、今は上下に分かれた橋が2つ架かっている。初代の橋は放水路開削中の1924年(大正13年)に架けられ、この橋が子どもの頃渡った橋で、この橋の川の中央部に差しかかると橋が揺れて怖かった記憶がある。

 この橋を歩いて渡ったのは、川向うに釣具屋があって、そこで餌や釣り道具を買うためだが、後年その店がキャンディーズのメンバーの実家であったのを知り、そういえば可愛い女の子が居たような気もするが定かではない。

【写真−3 歩くには最高の堤防】

 写真−3は上流から写真−2の千住新橋方面を撮ったもので、現在も土の堤防が維持され、草で覆われているのは好ましく、子どもの頃と全く同じの状態が残っている。

 

 その斜面で段ボールを尻に敷いて滑り降りたり、成年になっても雪が降るとスキー板を担いで堤防の斜面で滑ったこともあり、思い出の多い土手である。

 今はどうか分からないが子どもの頃は春になると土手にはツクシがあちらこちらに生え、ヨモギもあり、それを摘むのも楽しみであった。また、クローバーもたくさんあり四葉のクローバーを探すのも楽しみであったが、見つけたことは残念ながら一度もなかった。

 その春に、音高く雲雀が頭上で鳴きながら空高く飛んでいる姿も珍しくなく、これは葦の繁る湿地帯があったためで、全て埋められてしまった現在、雲雀など絶滅したのではないか。

 写真−3の右側に高いビルがあるが、ここはかつて小学校のあった所で、統廃合でなくなり区の施設とマンションになった。定かではないが千住では最初に出来た高層ビルの様な気がする。

 さて、放水路のグラウンドに行くには野球をしに行くことが多く、当時はスポーツといえば野球一辺倒で、かつての三原監督が率いた西鉄ライオンズの黄金期で、放課後も休みの日も野球三昧の日であった。

 このグラウンドに来ると、他の地域から来て練習しているチームがあって、そのチームに試合を申し込んで試合をするが、時には判定を巡って揉めることもあったが、子ども同士でも何となく収まるもので、そうやって子どもでも社会を知る場でもあった。

 この対戦相手だが、ビートたけしが『足立区』をネタにして笑いを取っていて、ビートたけしも子どもの頃は野球をしていたというので、もしや知らずに対戦したこともあるのではないかと思ったことがあった。

 しかし、ビートたけしは足立区でも川向うの環七沿いの町の育ちで、千住のこちら側に川を渡って野球をしに来るとは思えず交差することはないようだ。

 それにビートたけしは足立区といってもかなり辺境、既に埼玉県に近い所で育っていて、千住から見ると『川向う』といって子ども心でも馬鹿にしていた方面だが、こんなことはどうでも良いことになるか。


 

author:cebushima, category:東京慕情, 19:08
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