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へそ曲がりセブ島暮らし2018年 その(20) ヨット航海記『ふたりの太平洋』

 堀江謙一が小型ヨットで太平洋を単独横断したのは1962年。その時初めてヨットに興味を持ち、本屋で著作の『太平洋ひとりぼっち』を見つけて読み、こんな小さなヨットで太平洋を渡れるのかと驚き、それ以来ヨットに興味を持った。

【今や古典に入りそうなヨット航海記】

 堀江が太平洋を横断したヨット『マーメイド』は全長19
フィートの合板製で、母港である兵庫県西宮港を5月12日に出航し、サンフランシスコの金門橋の下に到達したのは8月12日、ちょうど3ヶ月で太平洋横断を成し遂げた。

 当時はヨットで日本を出国するなど考えられない時代で、堀江は密出国でアメリカを目指し、日本の当局側は到着後にそれを問題視していたが、アメリカでは英雄となり、その様子を見て日本側は有耶無耶にしたから、いつの時代も日本はアメリカの顔色を伺っているのは変わらない。

 そのマーメイドの船体はサンフランシスコに寄贈されて、現在も博物館に保管、展示しているというから、一度見てみたいが、東京の木場にある『木材・合板博物館』にレプリカが展示されているというからそちらで我慢しよう。

 堀江はその後ヨット冒険家としてスポンサーを見つけて世の中を渡って行くが、1932年生まれの存命中で、一度東京・晴海で開かれたヨットとボートの展示会場で、白髪頭の元気そうな姿を見ているが、大きな冒険をする人なのに身体は小柄なのが印象に残った。

 今でこそ、ヨットで海外へ行くなど珍しくなく、小生自身かつて横浜からハワイまでヨットにクルーとして乗り往復航海をした経験を持ち、知り合いには自作のヨットで世界一周、あるいは太平洋を往復、トンガまで往復したなど海外へのクルージング経験のあるヨットマンなど何人もいる。

 さて、表題の航海記『ふたりの太平洋』に入るが、この本は1980年初め頃購入したが、上下2段組で300ページ以上あり、少し読んで仕舞い込んでしまった本で、今回改めて取り出して読んだ。

 『ふたりの太平洋』の副題に『ロス夫妻のヨット周航記』とあるように、夫婦で1967年5月にサンフランシスコを出航し、太平洋を時計回りに19ヶ月かけて航海した記録で、総航海距離は2万海里、寄港地は70ヶ所に上った。

 夫妻が全財産をはたいて新造し、『ウィスパー』と名付けられたヨットは全長36フィートのFRP(グラスファイバー)製で、ロングキールという古い船型だが、浅瀬の多い太平洋の島を巡るには船体下部のトラブルは少なく、実際珊瑚礁上にヨットが横たわっている写真もある。

 

 ただし、デッキからの水漏れにはかなり苦しんだようで、航海中に何度も水漏れ箇所を補修した記述も多いが、ヨットの航海というのは水浸しの風呂場が上下するエレベーターの様な状態の中で暮らすので、仕方のない面もある。

 この航海は半世紀前の南太平洋の島々の様子も詳しく記述されていて、この頃はまだ『南海の楽園』という言葉が残る時代で、今のように観光客や車の排気ガスにまみれる前のこれら島の貴重な描写と島民との交流があり、この半世紀の人類の進歩は島にとっては善し悪しということが分かる。

 

 ヨットは日本にも寄港していて、鹿児島から瀬戸内海を通り、小豆島にある造船所で整備するが、この造船所は小生が横浜―ハワイを往復したヨットの造船所でもあり、その後、太平洋岸を北上してヨットのメッカである油壺にも寄っていて、どちらも縁を感じた。

 

 北海道釧路を最後に日本を離れ、アリューシャン列島からアメリカ大陸を南下するヨット航海としては珍しいコースを取るが、日本に寄港中には外国のヨットが珍しい時代で各地で歓迎され、今度のオリンピックで謳った偽善臭ふんぷんの『おもてなし』ではない、本当のおもてなしがまだ日本人にはあったことが伺える。

 

 筆者のハル・ロス夫妻は1975年にも南米最南端の『ケープ岬』への航海記を出版しているが、日本語訳で出版されているのは本書のみになるが、ヨットにまつわる著作は多い。

 

 ちなみに本書を訳した『野本謙作』はひと世代前の日本のヨット界では知られた人で、大阪大学の造艇工学の教授にあり、『春一番』という洒落た名前のヨットのオーナー・スキッパーであったが、2002年西宮ハーバーで春一番兇望茲辰討い浸に事故死、76歳であった。

 

 ハル・ロスは本書の様なクルージングを楽しむヨットマンかと思っていたが、いくつかの港を寄港しながら単独で世界を回るレースの草分けであるBOC Challenge第2回レースに出場していて、40〜50フィートのクラス2の部門で完走し4位、所要日数は171日であった。

 

 なお、1982年に初めて開催された第1回レースには、多田雄幸の乗る自作艇『コーデン・おけら后戮32〜44フィートのクラス2で優勝する快挙を成し遂げたが、この時の所要日数は207日であった。

 

 多田は1990年の第3回BOCレースに新艇の『コーデン次戮濃臆辰靴燭、寄港地のオーストラリア・シドニーでレースの不振から重圧を感じたのか自殺をしてしまった。60歳であった。

 

 このレースにもハル・ロスは多田と同じクラス2で2度目の挑戦をしていて、このクラスでは多田の艇を含めて2艇が棄権したが、ハル・ロスは211日かけて完走し、4位に入っている。

 

 なお、多田の弟子といえる『白石康次郎』は26歳になる1994年、多田の乗っていた船で単独無寄港世界一周に挑戦し、176日で完走。これは当時としては最年少記録となっている。

 

 その後白石は海洋冒険家として数々のレースに挑むが、近々フランスから出る過酷なレースで知られる世界一周レースに参加を表明しているが、使用する船の建造費だけでも数億円というから、ただのもの好き、好奇心だけでは冒険レースには出られない時代になってしまった。

 

 さて、ハル・ロスはかなり過酷なレースにも参加した優秀なヨット乗りと分かるが、数多くの著作を残して2008年、80歳でこの世を去り、本書の太平洋を一緒に航海した夫人も、夫と同じ2008年に亡くなったから、最高の夫婦といっても良いであろうか。

 


 

author:cebushima, category:へそ曲がりセブ島暮らし 2018, 18:48
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